2012年5月23日水曜日

狭心症と老人介護と『背中で道徳的な人』

今日は久しぶりに朝から狭心症の発作を起こしてしまい、又ニトロのお世話になった。

昨年末に、冠動脈CT心筋シンチグラフィの検査をした後、半年程快調で発作が全然起きなかったのに、何故か今日来てしまい、ニトロ服用後のだるさがおおっている。

この発作の後に母の所へ行くのは本当にきつい。
何故かと言うと心底明るくできなくて、寛容でなくなるので、いつも簡単に受け入れられることが、かなり無理をしないと受け入れられなくなるからだ。

「そんなことくらい、我慢してよ。」って言いたくなるけれど、そこからの跳ねっ返り係数の強さを思うと、とても太刀打ちできないので、それを言う気力も出ず言葉を飲み込んでしまう。
「今日は自分のことで精一杯、ここに来るのでやっとよ」と言いたいのだが、うだうだ説明できない。それが言えないのが体調の悪さを物語っている。窒息しそうなストレスだ。

さすが親子で、相手も感がよいので、私のイライラに反応するから余計やりにくい。

とても疲れた。
この疲れって、マジきつい。

私の受け答えが素っ気ないから、不満を感じて益々母が駄々っ子になる。
今日の私は頑張っても、駄々っ子の相手はできない。
私も再び心臓の血管が痙攣しそうな気分になる。


今日の毎日新聞にこんな記事があった:
『背中で道徳的な人』というタイトルで、鹿島茂さんの記事だ。

ジンメルという人の『愛の断想 日々の断想』という本からの引用らしいが

"或る道徳的な決意を試み、これを実現しようとする。ところが、それが、初め考えていたより大きな力や大きな犠牲を伴うことがある。しかし、私たちは、それに対してもう責任を負うことができない。"
そうすると、もはや欲するのではなく、ただそうせざるを得なくなるという段階に達する。

そこで、個々人の意志や努力ではどうにもならない巨大な問題を前にした時、人はどう対処すべきか?  ジンメルは「軽薄さ」で対処しなさいと言ったらしい。

対立して調和し難い、衝動・義務・努力・憧憬に襲われ、更に突き詰めて自分が粉々にされてしまう前に、ふっとひと呼吸して「まっ、こんなもんでいいか」というある程度の軽薄さを持つことが大事だということらしい。

たまたま目にした記事を、そこから自分的に読ませていただき、今日の苦痛で粉々になる前に「まっ、いいか!」と・・・

えっ!? いつもかなりな程度の軽薄さですと??


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