2012年5月17日木曜日

似ている!『セント・オブ・ウーマン』と『ムーン・パレス』

以前から気になって仕方なかったことがある。

アル・パチーノ主演の映画『セント・オブ・ウーマン』とポール・オースターの小説『ムーン・パレス』が「似ている!」と感じて私の頭の中でリンクしてしまい困っていたことだ。

文学好きや映画好きに、「似ていませんか?」って聞いても、怪訝そうな顔をするだけでなかなか同意してくれる人はいない。そんなに突拍子な発想だろうか?


今回久しぶりに両者を観て、読んで「ああ、そうか!これに反応していたのか?」と、気持ちがスッキリした。


映画のアル・パチーノの演技は素晴らしく、盲目の彼が狂気じみた会話の台詞の途中で時々発する「ハッ!」といううなり声ともため息ともつかない奇声が、ムーンパレスのジュリアン・バーバこと、トマス・エフィング老人の会話中に挟む「ハッ!」という音と共鳴してしまっていたのだった。


もちろんそれだけではない。
両者とも盲人で、稀にみる頑固者、さらに孤独の典型のような孤独な生活で・・・

アルは元軍人で、杖を使えば歩けるから障害物の位置さえ把握できればタンゴまで踊ってしまうけれど、画家であったエフィングに至っては、両足が死んでしまっているから車椅子以外に移動手段はない。しかも両者とも死のうと思っていることに変わりがない。
そんな状態の彼らを、苦学生のチャーリーが、散々もがき苦しんだ学生の成れの果てのマーコ・フォッグが手となり足となり世話をするはめに・・・
しかも、ふたりともとても献身的で、その誠実な姿が重なってしまう。

ムーンの方は長い小説なので、老人との関わり箇所は一部であり、セントではそれが全てであるが、その部分の印象の強さでは、二つが重なってしまっても仕方ないと思った。

ムーン・パレスが映画化されたら、アル・パチーノが老人の役をやれば多分みんな私の言っている意味を分かってくれるとおもうのだ。

ムーン・パレスは訳者の柴田さんのお話では、ポール・オースターが「私がいままで書いた唯一のコメディ」と言っているらしいが、「う〜〜ん!ホント?」と聞き返したくなる。
が、描写の可笑しさは確かにコメディ調だし、よく考えると登場人物や彼らがやっていることはメチャクチャだ。こんな極限あるのか??と思えるくらい滅茶苦茶なのに、作品を通して夢中になっていると、全然不自然ではなく、引き込まれてしまう。

作家本人にコメディと言われると、もっと力を抜いて楽しんで読まないといけないかな?なんて急に自由な気分になり、するとふわ〜〜と作品広がって又違った味が出て来るから不思議だ。映画好きはその世界の転換が実に柔軟だ。
もっとも自分が単純なだけかもしれないが・・・。

そんな訳で、今回は謎が解けてホッとした。
しかし親子三代に渡る因縁の連鎖は実に面白い。
妻を捨てて、捨てた妻が妊娠していて子供ができていたことすら知らなかったおじいさん、その息子が父を知らず、先生をしていた時に、女子学生と一回だけ結ばれて、他人になさぬ仲を目撃されてしまったために失踪してしまった彼女が、やはり妊娠していて生まれたのがマーコ。彼も父親のことは何も知らない。

そのマーコはというと、恋人のキティが妊娠して、どうしても産ませたかったのにキティはまだやりたいことがたくさんあるから、と産むことを拒絶し、マーコは自分の子と彼女を失うことになる。
しかし、大切なことは、バーバ家の呪われたような父と子のリンケージがここで途切れることではないかと思うのだ。(マーコはこの時点では少なくても父親の居ない、父親も子供が存在していることを知らない家族を残す可能性はないので)車とお金を盗まれ、おじいさんの洞窟は湖の下、父親も死んだし、キティも去った。

全てを失ったマーコはある意味では、過去から解放され、全くのゼロからの出発ができる状態になる。
何もないって、一番の自由なのかも、だって新しく生まれ変われるってことだから。
ここで、ムーンパレスで食べたフォーチュンクッキーに入っていた、この意味がよく分かるような気がする。

「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である」




【後日談】
数日後にふと思い出し、紅茶の"ムーンパレス"を飲みながら、このブログを読み直していた。ちょっとおしゃれな気分だった。
マリアージュ・フレールの店長さんとも話したが、「今読んでいる本と同じ名前なのですよ」と滅多に手に入らないお茶を買ってきたが、なかなか味わい深い。ちょっぴりチャイナの香りがして、やはりあの世界の香りがする。

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