2013年9月18日水曜日

『蝶の舌』 〜何故 "La lengua de las mariposas" なのか?

2013年のスペイン語夏講座は『蝶の舌』でした。

大好きな作品で、原作の短編も読んであったので、とても興味深く楽しい8回の授業でした。



原作者のマニュエル・リバスはスペイン、ガリシア地方の作家で詩人でもジャーナリストでもあります。映画監督のホセ・ルイス・クエルダは彼の3つの短編を作品に織り込み(紡ぎ)見事な作品に仕上げました。

ガリシアの美しさ、1936年以前の平和、そしてそれ以後の世界への不安の暗示を子供と老教師というイノセントな組み合わせの中に、美しく、哀しく、強く、優しく、描き出しています。アントニオ・マチャードの詩の響きとともに心に深く浸透してきます。

そこに、映像の美しさと音楽の競演が又作品に命を吹き込み更に忘れられないものに仕上げています。何と音楽はあのアレハンドロ・アメナバル(『海を飛ぶ夢』の監督)です。







何と言っても主人公のモンチョ、彼があの歳のあの顔と声と仕草を持った、あのマヌエル・ロサノでなければあの作品ができなかったのではないだろうか?と私は思います。
それが、sapo(ヒキガエル)みたいな顔をしたグレゴリオ先生役のフェルナンド・フェルナン・ゴメスの原作のイメージ通りの姿と共に、他の誰でもできない作品が出来上がりました。

あの愛くるしいモンチョが何故この写真のような顔に変われねばならなかったか?
しかも先生を罵り石を投げつけるまでして・・・

今回は、何故『蝶の舌』なのか?というテーマとともに色々考えました。
それと同時にスペインの歴史を学び、真実を口にできない時代へ突入する内戦下の残酷さ、それが上の写真のモンチョの顔に変わらざるをえない不条理さを知り、今戦争のない日本を大事にしなければいけないと思いました。

けれど、戦争のない日本でも、おのおのの心の中にinfierno (地獄)が存在しているのだということをつくづく思いました。
「天国とか地獄とかの死後の世界ってあるの?僕恐いんだ」と言うモンチョにグレゴリオ先生が、
「あっちの世界にそんなものはないんだよ、けれど、憎しみとか残酷さとか・・・本当の地獄はわれわれの心の中に存在しているんだ」と言ったのが印象的でした。


クラスの最後に発表した私の何故『蝶の舌』なのか?そして、原作『¿Que me queres, amor? 』の中の残りの二つの短編を加えた意味がどこにあるのか?に関する文章を載せておきます。


¿Por qué "La lengua de las mariposas"?

Las mariposas tienen la lengua, pero no podemos verla.
Por qué? La tiene enrollada debajo de la cabecita como la cuerda de un reloj.  Si no, no podría volar. 

Y solamente cuando se nesecita, la mariposa desenrolla su lengua, como para poder alcanzar el néctar en cáliz de las flores.
Realmente las mariposas tienen su lengua, pero no podemos verla.

La palabra "lengua" tiene dos significados como lengua en sí y idioma o lenguaje.

En esta época, después de 1936, España entró en el periodo muy grave y duro.  La gente no podía hablar las cosas que quería, y todos tenían que esconder su pensamiento.  Nadie podía hablar las cosas reales y tenía que guardar algo en secreto como la lengua de las mariposas..  Si no, no podría vivir en su mundo.   

Hay dos episodios simbólicos en la película, uno es sobre Nena, y otro es sobre Tazán.

La historia de Nena enseña el caso de "Por no tener la lengua, podía vivir".
El lobo mordió su espalda, pero se salvó porqué no podrá llorar y no podorá avisar a los vecinos.  Nena perdió su lengua, pero se salvó.

Pero el caso de Tazán es lo contorario, es decir, "por tener la lengua, él murió".   Tazán ladró mucho y fue matado por pinchar su garganta (o su lengua?) con un palo.  A saber, Carmiña no lo ataba y dejaba en libertad, por eso  podía hablar y quitó la vida.
Creo que si lo ataba, Tazán podría vivir.  Es muy absurdo y irónico. 

=概要は以下の通りです:

蝶は舌を持っているのに、私たちには見えない。どうしてだろうか?
時計のゼンマイのように、小さな頭の下に巻き込んでいるからだ。もし巻き込んでなかったら、彼らは飛ぶことができない。

そして、必要な時だけ舌を巻き戻す、丁度花のガクの所にある蜜を吸う時のように。
実際は蝶は舌を持っているのだ。けれど、私たちには見ることができない。(*グレゴリオ先生がおっしゃるように、顕微鏡を使わねば見ることができないくらいに巧妙に隠れている)

舌(*スペイン語では"lengua"という)という単語には二つの意味がある。
一つは舌そのもの、そしてもう一つは言葉とか言語とかの意味だ。

この時代、1936年以降スペインは大変深刻な重い時代に突入する。人々は話したいことを話せず、ほとんどの人は自分の思想や考えに覆いをかける。誰も本当のことは話せず、蝶の舌のように、秘密として心の中に隠さなければならなかった。
もし、そうしなかったら、その世界では生きて行けなかったのだ。

この映画には二つの象徴的なエピソードが挿入されている、Nenaの話と、Tazán
の話だ。
(*この二つの作品とは、Nena〈中国娘〉は"Un saxo en la niebla"『霧の中のサックス』で、Tazán〈犬〉が"Carniña" 『カルミーニャ』という短編であり、『蝶の舌』にこの2作を合わせて映画が出来上がっている。何故ホセ・ルイス・クエルダが多くの短編の中からこの二つを選んだかが作品をひも解く上でとても重要なポイントになる)

Nenaの物語は、私たちに『舌を持っていなかったから(言葉を発せられなかったから)、生き延びられた』ことを教えた。
オオカミはネナの背中に噛み付いた、けれど殺さなかった。どうしてかというとオオカミはそこに噛み付けば彼女は言葉を失うことを知っていたから、そうすれば泣くことができないから、助けを呼ぶことができない。自分たちは時間稼ぎができて逃げられる、だから赤ん坊のネナを殺すまでには至らない。こうしてネナは救われた、けれど一生しゃべれなくなった。

けれど、Tazánのケースは全くあべこべだ。
つまり『舌があったから(しゃべることができたから)殺された』のだ。
Tazánはカルミーニャがこよなく愛している犬である。カルミーニャは娼婦だから男が訪ねてくるのだが、とにかくよく吠える。そして疎ましく吠え過ぎて、棒で喉を(あるいは舌に突き刺された?)串刺しにされて殺された。とても無惨だ。
彼女はTazánをつないでおかずに、自由にさせておいた。それ故に犬は吠え(しゃべる)たりまとわりつくことができてしまい、命を失ったということになる。
彼をつないでおいてあげたら、生き延びることができたかもしれない。
           以上=


こんなことを考えながら授業が終わり、6週間に渡ってともに学んできた仲間にこのコメントを高く評価され、幸せでした。

このクラスのお陰で、とても素晴らしい夏でした。
我が家で起きていることはまるでinfiernoでしたが・・・。

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